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黒き尊き魔女の結婚6

黒き尊き魔女の結婚
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魔法のスフレと真夜中の治癒

 フィリスはさっそく晩餐の後、少ししてから、厨房へ行った。コルテスから使用許可を得た時間帯になったからだ。

 厨房は晩餐の片付けが終わり、コルテスを始めとした厨房の使用人たちは休憩に入っていて、翌日の仕込みを命じられたキッチンメイドのほかに人はいなかった。フィリスはそのメイドとアニカに頼み、必要な材料を出してもらった。

「何をお作りになるのですか」
 ふたりは興味津々といった様子でフィリスの手元を覗き込む。

「旦那さまは夜半すぎまでお仕事をされているでしょう。小腹が空いた時のために、胃腸に負担がかからないスフレにします」

 作り方は単純だ。卵を割ってしっかり泡立ててから、少量の粉類を加え、オーブンで焼くだけ。

 普通のスフレなら焼き立てから時間が経つとしぼんでしまうが、フィリスが作るものは違う。

 フィリスはまず、卵を泡立て始めた。しっかりと角が立つまで手で泡立てるのはなかなか根気がいる作業だが、問題ない。フィリスの手付きに、メイドたちは目を丸くしている。

「ソースを作りたいから、果物があれば出してもらえる?」

 フィリスが頼むと、二人は頷き、食品庫の方へと行った。その間に、フィリスは小さく手を左右に振って、生地に魔法を仕込む。

 膨らんだスフレの生地が形を保ち崩れないのは、力を内側に蓄えるからだ。フィリスが作る食事は、人の再生能力に働きかける。一朝一夕で怪我が劇的に治ることは無理だが、生命が本来持つ治癒能力そのものが高まり、相互作用で良くなってゆく。フィリスは過去、同じ方法で怪我をした馬を治療し、伯母の長引く風邪を治したこともあった。

 使い込まれた器に生地を入れ、オーブンで焼き上げる。仕上げに粉砂糖を振り、オレンジを剥いて酒と共に煮詰めたシロップを添えた。視線を感じて顔をあげると、厨房の入り口にコルテスが立っていて、こちらを睨み据えている。フィリスがにっこりと笑うと、ふん、と鼻を鳴らし、何も言わず出ていった。

 フィリスは手早く片付けをした。アニカやキッチンメイドも手伝ってくれた。同時に湯を沸かし、お茶の支度も終える。それをトレーに乗せて、手伝いを申し出てくれたアニカにもう休むように言い、長い階段を登っていった。

「これを君が焼いたのか?」
 書斎机の端にトレーを置くと、アルカルドは驚いた様子をみせた。
「はい。お口にあえばいいのですが」
 アルカルドは朝食時も、晩餐時も、あまり食べない。甘いものも好まないようだ。そのためスフレは甘さを控えめにしてある。
「ありがたく頂こう」
「お茶を淹れますね」

 アルカルドは頷き、スプーンを口に運ぶ。
「……ああ。とても美味いな」
 微笑んでそう言ってくれたので、フィリスは安心した。
「優しい味わいだ。君は料理も得意なのだな」
「ありがとうございます」

 もっとも得意な料理はウサギの煮込み料理だ。この辺りの森にもいるだろう。今度早朝から出かけて肥ったウサギを獲ってこよう……と、ひそかに決意する。

 スフレはいったん匙をつけると、適度にしぼみ、無理なく完食できるようになっている。フィリスはお茶を淹れ、アルカルドの前に置いた。

「これは?」
「お休み前なので、睡眠に支障がないハーブティーにいたしました。カモミールに蜂蜜を少しだけ加えてあります」

 お茶にもフィリスのまじないが加わっている。仕事を終え、寝台に横になったとたん、深い眠りにつけるはずだ。

「……では。旦那様。お先に休ませていただきますね」

 フィリスが眠ってからアルカルドが寝室に入るようにしていることは分かっている。おそらく、閨での行為を避けようとしており、互いに気まずくならないようにとの配慮もあるだろう。そしてなぜ彼が、そうしているかというと、きっと、あの怪我が原因だ。

 怪我というより、呪いというべきか。

 初めての晩は、フィリスなりに落ち込んだ。自分に女性としての魅力がないのだと。その可能性も否めないが、一緒に領地を回ったあの時、アルカルドの反応を見て確信した。

 彼は、フィリスに知られたくないのだ。

 自分が経験したことも、負った傷のことも。そうであるならば、フィリスもうまくやる必要があった。

 アルカルドに悟られないように、彼を治療する。なんといってもアルカルドは、フィリスの大事な旦那様なのだから。

 案の定、夜半もだいぶ過ぎてから、アルカルドは部屋に入ってきた。フィリスはじっと動かず、眠ったふりをする。アルカルドは疲れているのか、深く嘆息したようだ。衣擦れの音がして、ガウンを脱いだものと思われる。そしてフィリスとは反対側の端で眠りについた。

 フィリスが書斎で彼に飲ませたのは、本人にも言ったように安眠を邪魔しない茶だ。それもただのハーブティーではない。特別な術がかけられている。

 そのため、横たわったアルカルドが眠りに落ちるのに、フィリスはたったの十数えるだけですんだ。

 むくりと起き上がり、先日と同じように寝台の上を移動し、彼の側まで行く。こちらに背を向けて眠る彼は、都合がいいことに、右腕が治癒しやすくなっている。手を当てて、古き善き言葉を唱え始めた。

『ほら、 仔山羊が生まれ、産声が聞こえた
 ほら、見てごらん その朝一番の光が立谷を包むのを
 清き光は仔山羊を包み、あらゆる穢れを払拭する
 ボーラン
 汝は聖なる夏の光に連なる者なり
 ボーラン
 汝は輝く冬の夕照を受けるにふさわしき者なり』

 古代ゴルダ語といわれる言語には、先般の子守唄同様に、ひとつひとつの言葉に意味があり、力が秘められている。

 フィリスは手をかざし、善き言葉を唱え続ける。苦悶に満ちた表情だったアルカルドの眉間から力が消えて、健やかな寝息をたてはじめた。

 これを続けなければならない。明日の朝、彼は症状が改善していることに気づくだろう。明日よりは明後日、明後日よりはその次の日と、確実に右腕は良くなるはず。問題は……。

 わたしの体力が持つかしら……。

 フィリスは深く息を吐き、先日と同じように、その場に崩れ落ちてしまう。全身の倦怠感は凄まじく、力が枯渇してしまったかのように感じる。それにとにかく寒い。自分の定められた場所に戻って眠る体力も気力もない。フィリスはアルカルドに覆いかぶさるようにして、眠りに落ちていった。

 大丈夫。明日の朝になったら、コルテスの素晴らしい朝食が食べられる。

 林檎ジュースに、パセリをたっぷり混ぜ込んだオムレツに、肉厚の茸のソテーに、チキンサラダに、自家製ハムに、チェリーやオレンジの皮を砂糖で煮詰めたものを乗せた甘い甘いペストリーに、桃のコンポート……ああ、それらを食べることができれば、フィリスは元気を取り戻す。

 しかし、アルカルドの健康を脅かしていた魔物の残滓は、それなりに手強いものだった。その呪いと穢れを自分の身に移したフィリスは、夜半、夢を見た。

 バランデュールは、古代ゴルダ王国の王女であり、聖女でもあったロザリア姫を祖とする。
 ロザリアは王国が西方民族に滅ぼされた際、命からがら城から逃げて、深い森に隠れ住んだ。
 その際、ゴルダの瞳という魔法石を持ち出し、この石の加護によって森に生活拠点を築くことができたと言われている。西方民族を始めいくつかの勢力が、ロザリアが持ち出したゴルダの瞳を欲し、森に侵入を試みた。しかしメライア川と深い森はそれを阻み、限られた者しか入ることができなかった。

 グランダール王国の建国は二百年前。西方民族を押し戻し、三国に分裂していたのを統合し、現王朝を築いた。
 
 初代国王は教会の助言により、バランデュールの森に使者を遣わし、ロザリア姫の末裔に伯爵の位を授けた。
 ロザリア没後、森の結界は弱まったが、基本的には許可なく森の奥に入り込むことはできなかった。多くの人間が川を渡ろうとした時点で流され、対岸にたどり着けない。奇跡的にたどり着けたとしても、森に迷い、帰るべき道を失い、遭難し、運が悪ければ野生動物の餌食となる。森には熊もいれば、獰猛な灰色狼も棲んでいる。彼らを退け、言うことを聞かせられるのは住人だけだ。

 ロザリアの子孫、彼女の力を受け継ぐ子供は女子に限定された。
 
 男子はたまに生まれても夭折し、長く生きることはできなかった。女たちは、男子が生まれると森の外に出した。森の外でなら、成人することができるが、彼らはバランデュールの真の恩恵には預かれなかった。すなわち、魔法を扱う力である。

 ロザリアの力を継承したのは、すべて女子である。
 
 そのため代々、領地を継ぐのは女伯爵となる。女たちは、かつての聖女ロザリアのように人々を魔物から守ったり、大きく天変地異を起こすほどの力はなかったものの、日々の暮らしをほんの少し便利なものにする程度の力は生まれながらにして持っていた。

 フィリスもその恩恵に預かっているのだ。

 火を熾すこと、風を起こすこと、動物と心を通わせること。特別な桑の葉で特別な蚕を育て、上質な繭を作ること、そして―――魔物による障を自分に移し、体内で浄化すること。

 浄化の際は、非常に体力と気力を消耗した。一度にやろうとして、最大で十日間眠りっぱなしになってしまったこともある。だからフィリスは、アルカルドの治癒に、時間をかけて臨んでいる。

 ただし、その後の眠りは深いようで浅い。悪夢と辛かった過去が混ざった夢を見てしまう。

 この日もそうだった。

「お母様……」
 夢の中で、フィリスは泣きながら森を駆けている。裸足で森を駆け、川まで出ると、唯一の船着き場に母の姿を認めた。

 母はとても美しい女性だった。すらりとした肢体を、長い漆黒のマントでくるんでいる。目深に被ったフードの下から溢れる髪も夜の闇の色。フィリスと同じ黒髪だった。

 母は今まさに、小舟に乗り込もうとしていた。

「行かないで、お母様!」

 フィリスが叫ぶと、母は振り返り、悲しく笑った。

「フィリス。追いかけてきては駄目。手紙を残してきたでしょう」
「ここを出ていくって。どこに行くの」
「どこへでも。この森では、シモンが生きることは難しいの」
 母は腕に、赤子を抱きかかえていた。フィリスの弟だ。半年前に生まれた。
「フィリス。分かってちょうだい。シモンのためなのよ」

 母が領地を出ていくのは初めてではない。一度目は、彼女が十八歳の時だったという。外側で出会った男と恋に落ち、身ごもった状態で森に戻った。そうして生まれたのがフィリスだ。

 代々の伯爵家の女たちはそうして血をつないできた。

 フィリスの伯母たちは言う。バランデュールの女は森を出て、種をもらうが、子を生むために戻ってくると。実際、フィリスも、フィリスの弟も、従姉妹たちもそうして生まれた。フィリスが七歳の時、母が一年ほど姿を消し、戻ってきたと思ったら弟を身ごもっていた。

 父親はわからない。もっともそれは、バランデュールの女にとって重要ではない。

「お母様。あたしも行く。あたしも連れていって」

 フィリスは懇願した。まだ八歳だ。母を、心の底から求めていた。しかし母は、悲しそうに首をふるばかり。

「フィリス。あなたはロザリア王女の由緒正しき末裔。森も蟲も、あなたを手放しはしない」
「それでも行く」

 フィリスは母のもとに走った。しかし母は無情にも小舟を漕ぎ出してしまった。それも櫂を使うのではなく、両手を優しく左右に振るだけで。

「お母様!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。フィリス。あなたも年頃になれば、わたくしの気持ちが分かる。わたくしたちは森に育てられ、森に依存し、力を蓄える。でも、すべてを捨ててもいいと思えるような出会いがきっとある。その時は……」

 その先の言葉は激しく流れる川に飲み込まれた。小舟はどんどん遠ざかる。フィリスは母を追って、川に飛び込んだ。

 まだ幼かったが、泳ぎには自信があった。城の側を流れる沢や滝壺で、たくさん泳いで育ったから。しかし、領地の境を流れるこの川は、メライアは、事情が違った。

 フィリスは激しい流れに飲み込まれた。流れはフィリスを、押し戻そう、押し戻そうとしていた。意志ある流れに逆らうように泳ぎ、しかし、途中で力尽きた。フィリスは流れに翻弄され、息ができなくなった……。

 はっ、と目覚めた時、室内はすでに明るくなっていた。またしても寝坊してしまったのだ。しかし、それはあくまでもフィリスの習慣に照らした場合であって、侯爵夫人としては決して遅い起床ではない。

 実際、寝台でぼんやりしていると、すぐに侍女のクロエが洗面道具を抱えて入ってきた。

「奥様。お顔色が……」
 フィリスは微笑んで言った。

「大丈夫よ。朝ごはんをいただけば、きっとすぐに元通り」

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