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黒き尊き魔女の結婚9

黒き尊き魔女の結婚
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魔物の正体

 フィリスが取り逃がしたのは、魔の欠片だ。アルカルドの腕は時間をかけて浄化していたため、欠片だけならば、そう大きな惨劇は起きないはずだ。

 それでも、念には念を入れておく必要がある。

 なぜなら魔というものは、はじめは、霞のように実体を持たないものなのだ。しかしそれを増幅させてしまうのは、いつだって、人間が持っている悪意だった。

 悪意は魔を育て、強大にし、時に、手に負えないほど邪悪な存在に仕立ててしまう。

 この屋敷にそれほどの悪意を隠し持つ人間がいるとは思えなかったが、万が一に備えておく必要があった。

 フィリスは寝室と、アルカルドの書斎にも、桑の葉とセージで浄化を行い、悪いものが入ってこられないようにした。

 それから折に触れ、屋敷内も探索した。新居に慣れるという口実があるため、ドルモアにも怪しまれはしない。

 この日。フィリスは厨房に行く前に、屋敷の三階部分を見て回ることにした。

 エントワーズの屋敷は三階建てで、広い玄関ホールは吹き抜けになっている。ホールを中心に左右対称の造りになっていた。一階部分には晩餐を取る食堂のほか、来客を迎えるための公的な書斎、居間がある。

 大広間では、舞踏会や、歌劇の催しを行ったこともあるという。二階部分の東側に家宝を展示するロングギャラリー、客室が四部屋ほど。将来の子供部屋やナースメイド(乳母)の部屋。西側に侯爵夫妻の寝室、私的な書斎と居間、朝食室、図書室、娯楽室がある。

 屋敷の三階部分を見たことはあまりなかった。使用人たちが使う階段や部屋は、屋敷を正面から見て背面部分と、屋根裏部屋と、地下に限られており、明確に、特徴的な緑色のドアで仕切られている。

 三階には普段あまり使われていない客室やギャラリーに飾りきれない先祖代々の骨董品などがしまわれている部屋があるらしい。

 最近では屋敷に慣れ、自由に歩き回ることができる。クロエも余計な詮索はしないので助かる。フィリスは寡黙で生真面目な侍女を下がらせ、ひとりで、そっと三階へ上がってみた。

 時間帯のせいもあるが、廊下の窓のカーテンが締め切ったままの場所も多く、薄闇が広がっている。

 魔物は暗い場所を好む。一階と二階部分は、使用人の通路を含め、それらしい気配はなかった。地下の厨房や食品庫も。唯一、調べていないのが三階部分なのである。

『ボーラン ボーラン……』

 フィリスは呪文を唱えながら、ゆっくりと廊下を進んだ。すると着用しているドレスの生地の表面が、淡く発光した。

 今日は、生家から持参した濃紫のドレスを着ている。自分で育てた蚕から取れた糸で織り上げたバランデュールの布。

 深い森の空気と特別な桑の葉で育った蚕は、上質な繭を作り出す。

 糸を紡ぐ時、布地に織られる時には、それぞれ魔法がかけられる。もちろん、ドレスに仕立てられる時も、一針ごとに聖なる力が縫い込められる。そうして出来上がったドレスは、それを着ている者を守るのだ。あらゆる災厄から。

 しかし、基本的にフィリスが得意とする魔法は治癒魔法と、浄化魔法だ。だから、アルカルドひとりを守ることはできるし、彼が負った傷も時間をかけて癒やした。

 もしも、あの魔の欠片が成長していて、強い悪意を持つ魔物となり、襲いかかってきたら……?

 額に嫌な汗をかく。全身が緊張しているのが分かった。

 はっと息を飲んだ。すぐ後ろに、何かが立っているような気配があった。空気が一気に重くなり、腐臭が漂う。フィリスは振り返りたいのを我慢する。振り返り、目がまともに合ってしまったら。

 こちらの動きを封じられる危険があった。伯母達が言っていた。悪い魔物に背後を取られてはならないと。

『ボーラン ボーラン……』

 フィリスは呪文を唱えながら、走った。ドレスがパチパチと音を立てて発光する。長い回廊の突き当りに窓がある。今は厚くカーテンがひかれている。必死に走るフィリスの後ろから、たしかに、犬や狼に似た獣の足音がついてきた。向こうも走っている。追いつかれてはならない。

 走って、カーテンをつかむと、思い切って引いた。

 強烈な西陽が差し込んでくる。振り返ると、陽光が届く場所ぎりぎりから、黒い影が飛び退る瞬間だった。

 フィリスは目を凝らす。

「……どうして」

 影は、暗がりのところで黒い炎のように揺らめいている。

『おマエはなんダ?』

 声が響いた。耳朶の奥に直接響くような、恐ろしい声だ。

『ナゼ、おれの獲物を横取りする?』

「獲物ではない」
 フィリスはきっぱりと告げる。
「彼はわたしの旦那さまよ。おまえなどに渡さない。今すぐにこの屋敷を出て、もとの場所に帰りなさい。そうしたら、おまえを見逃す」
 影は揺らめきながら、笑ったようだ。

『帰ることはできない』
「なんですって」

『おれが棲んでいたからだは、あの男によって殺された。おれには新しいからだが必要だ』

 フィリスは驚愕した。
「おまえ……ドール―ガなの?」
 魔物はさらに高く笑う。
『おれを知っているな。おれを知っているな。おマエは俺の仲間なのだな』
「ちがう!」
 フィリスは叫んだ。

「わたしたちは、おまえたちとは違う!」

 ドール―ガは厄介な魔物だ。彼らは本来、暗い洞窟の奥や、地下深くに隠れ棲んでいる。しかし時折、そこに迷い込んだ人間を襲い、臓物の一部を食すことによって、憑依もする。憑依した後はその人間に成り代わり、さらに仲間を増やしていく。昔の文献に、とある王国の王がドールーガに憑依され、半年と経たないうちに城の人間全員が魔物にすり替わってしまったことがあったと書いてあった。

『同じだ。おマエは俺たちと同じダ。おマエはあの男を喰うだろう。かぶりつき、血肉を味わい、その魂まで貪り喰う』

「黙りなさい!」

 フィリスは手のひらの光の珠を魔物に放った。魔物は小さく声をあげ、さらに奥の暗闇に退く。
「おまえをそのままにはできない。わたしが必ず浄化する」
 宣言するように言うと、黒い炎は怯えた様子を見せながら揺らめき、ふいに消えた。フィリスは新たな光の珠を手に生じさせ、魔物がいたあたりまで近寄ってみた。

 いない。廊下の左右には閉ざされた部屋がたくさんある。そのどれかに隠れたのか。あるいはさらに上の、屋根裏部分か。

 なんとかして、あれを捕まえなければならない。あの程度の魔法で退いたということは、やはり欠片のままでは弱いせいだろう。今のうちに退治するのが得策だ。しかしこの屋敷には、隠れる場所が多すぎる。

 フィリスは思案しながら、階段を下りてゆく。二階に到達した時、ちょうど向こうからクロエが歩いてきた。

「奥様。お捜しいたしました。先程お客様がお見えになりましたので、ご挨拶をなさってくださいと、バルローさんが」
「お客様?」
 舞踏会は来週頭だ。遠方からの客人は二日前くらいから滞在すると聞いていた。

「クレルモン伯爵令嬢デルフィーヌ様です。ご予定より数日早くお着きになったということです」

 クレルモン伯爵。デルフィーヌ。その名前には、確かに聞き覚えがあった。

 フィリスは疲れ切っていたが、ドレスの裾を持ち上げ、階下に急ぐ。玄関ホールの扉が開いていて、たくさんのトランクが中に運び入れられているところだ。続きの応接室の手前に立っていた女性が、くるりと振り返った。フィリスも螺旋階段の途中で足を止めた。

 ああ。思わず胸に手を当てて、彼女を見つめる。

 世の中に、これほど美しい女性がいるのか。

 背はすらりと高く、華奢な肩から、黄金色の巻き毛が波打ちながらこぼれ落ちている。白く小さな卵型の、整った面立ち。クリーム色の、やや丈の短い旅装用のドレスを着ているが、王女のような風格を感じさせる佇まい。

 彼女―――クレルモン伯爵令嬢デルフィーヌは、アルカルドがつい先日まで婚約していた女性その人だ。

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