記事内に広告が含まれています

小説を書いていることを、カミングアウトするかどうか

小説を書くということ

 小説を書いていることを、周囲の人に言っていますか? 家族や友人や恋人に。執筆は本来、とても孤独な作業です。そして時間がかかる故に、部屋にこもりがちになる。「あの人普段、なにやってんの?」と疑問を持たれたり、付き合いが悪い人と思われたり。それでも絶対に誰にも知られたくない人もいるでしょう。性格の違い、所属するコミュニティの違いなどから、考えてみたいと思います。

スポンサーリンク

実生活では、絶対に誰にも知られたくないタイプA

 学生の頃、友人のひとりがいきなり少女漫画誌でデビューしました。誰も、彼女の母親でさえ、彼女が漫画を描いていたことを知らなかった。おしゃれで綺麗な子で、友達付き合いも盛んな女子でした。
 後に、彼女は言いました。
「自分が魂こめてる世界のことを、無責任な言葉で否定されたり、色眼鏡で見られたくなかったんだよね」
「とにかく、ひとりで描いていたかったんだ。その方が自分を追い込めるし、結果いいものが描けるから」

 その言葉は今でも共感するところがあります。
 彼女は漫画家ですが、文章を書く人を含め、物語を作る人間は、厄介なほど繊細かつ美しい心を隠し持っています。
 わたしも隠し持っています(笑)。美しいかどうかはともかく、硝子細工の心を。
 人に覗かれたくないのです。安っぽい言葉で応援されたり、上から目線でもっともらしく諭されたくない。2次元で生きているコミュ障な人、なんて勝手にカテゴライズされたくない。そうだとして、それの何が悪いというのか。

 勇気をもって、「小説を書いている」と打ち明けたとしましょう。
 「へえ、そうなんだ。意外」
 「すごいね! 文章書くなんてには俺には無理だわ〜」
 「ふうん。で、どんな話書いてんの? あー……それ系。まあ、がんばって」

 さらに勇気を振り絞って、投稿しているサイトを教え、よかったら読んでみて、と伝えたとしましょう。もう、好きな相手に思い切って告白するのと同じくらい、悩み抜いて。
 「あ、ごめん。なんか忙しすぎて読んでないんだよね」
 「読んだよ〜めっちゃ良かった。え、感想? なんかアレがアレだったよね。アレアレ……」

 前回、「物語を作ることをやめることはできない、そういう体質になってしまっている」と書きましたが、実は、とても簡単に文章が書けなくなることがあります。
 ひとり勝手に、傷ついたときです。

 データがそれほど豊富ではないので超個人的な見解になります。

物語を作る人間は、基本、「気にしい」。人の言葉が気になる。深読みしすぎるし、自意識過剰ぎみである。想像力が豊かゆえに、「実はこう思われてるんじゃないか」「いやそれだけならまだしも、こんなことも思われてるんじゃないか」と際限なく考え込んでしまう。


 冒頭の彼女のように、「ひとりの方が創作活動は捗る」人もいるでしょう。
 でもそこをさらに細分化すると、実は極度の寂しがり屋、という面を持つ人もいる。物語を書いていることを知られたくないのは、傷つきたくないから。だから誰にも言えないけれど、自分が理解されていないと感じ落ち込むことがある。

 ひとりよがりで、面倒くさいやつで、我儘なタイプA。でも、仕方ありません。それは、感性という言葉に置き換えられる、価値ある性質とも言えます。

 心のどこかに空虚な穴がある。苦しくもがいてきた過去がある。馬鹿みたいに不器用。人によって傷つくのに、なお誰かを求めてしまう。でも求めてるよって言えない。実は簡単にだまされてしまう。見るもの、手に触れるもの、耳にしたことに対し、感じすぎる。
 欠けがあって、バランスが悪い。

 だから物語を作ることができるのです。

 わたし自身は現在、このタイプではないのですが、「どうしてそうなのか」は痛いほど理解できます。
 そのままでいいです。だって肝心なのは、結局、書くことなんですから。ときに感じる寂しさや虚しさすら財産にして、物語に昇華させればいいのです。

ごく一部の人にのみ、素性を教えているタイプB

 わたしはこれです。投稿時代からです。母は知っていましたし、彼(今の夫)にも言っていました。デビュー後に生まれた娘は、気づいたら勝手にわたしの本を読んでいました。付き合いの長い友人少数も知っています。

 自分が心血を注いでいることを、心許す相手には話したい。成果があったときに自慢もしたい。それで、ちょびっとでいいから褒めてもらいたい。ダメだったときは慰めてほしい。同じように、相手が懸命に頑張っていることは知りたいし、一緒に喜びたい。陰ながらでも応援したい。

 ただ、同じ場所に二十年以上住んでいるのですが、ご近所の人は知りません。わたしは専業主婦と思われています。先日は、「次の民生委員をぜひやってもらいたい」とスカウトされました。丁重にお断りすると、「子供さんたちも大きいし、ずいぶん暇があるでしょう? それなら家にこもってばかりじゃなくて、地域のために貢献しなくちゃね」と、言われてしまいました。さらに丁重にお断りすると、「また来年声をかけるわ」と。どうしよう……。

 子供には、学校で母の職業は言わないように約束させています。SNSが盛んな時代なので、著作についていろいろ言われるのは仕方がないと割り切ることができますが、家族が傷つくことがないように、です。

 ただし今、中学生の息子。
「うちの親、にゃんこ大戦争のガチャ用に物欲センサーカット帽子自作してた」
「自分が漫画やラノベ好きで理解あるから、ときどき流行ってるものを情報共有すると、大人買いしてくれる。ただし一番に読む権利は譲ってくれない」
「『ゲームもいいけど、消費に甘んじてばかりじゃなくてクリエイティブ路線は意識しないの?』とか言ってくる」
という会話をすると、「おまえの母さん、なにしてる人?」と訊かれるらしいです。
(言い訳すると、クリエイティブ路線〜は、息子があまりにもゲームやYouTubeに時間を費やすので、もったいないなーとか思ってしまって。勉強しないのか、と同じくらいウザいですね。反省してます)。

 実は、つい最近までは、どこであろうと、自分が「小説家である」と名乗るのは苦手でした。
 小説家とは、「誰もが知るヒット作品を次々に生み出している人」だけが名乗れる特権めいた肩書きなのではないか、という思いがあったのです(今もちょっとあります)。
 なので最初の頃に作った名刺には、肩書はなにも入れていませんでした。

「小説家」と名乗ったときに、「すごいですね」と言われるのが嫌でした。すごくないのに、と卑下する自分もまた嫌で。お互いに薄く笑ってその場をやり過ごす。あの微妙な空気感。でも考えてみたら、どんな職業でも、ベストセラー作家さんだって、「すごいですね」とは言われたくないでしょう。一瞬で壁を作られてしまう感じになる。

「家でちょこちょこPCの作業してます」
「データ入力みたいなこと?」
「そう」
 仕事を訊かれたときは、こんなふうに無難に答えるようにしていました。

 私生活の関係先ではあまり言わない。お仕事の関係先では、社会人としてきちんとした名刺を渡す。今は、こんな塩梅です。
 ただ、基本的には、タイプAなんです。自意識過剰で自己防衛本能が強く面倒くさい。
 それでも人間、生きているうちにさまざまなコミュニティが生じます。家族、学校、仕事先。結婚したら相手の親戚、子供の学校習い事、ご近所。状況に応じて、生活しやすいよう工夫した結果、現在地に着地したのです。

 デビュー前でも、「小説家を目指し投稿もしている」ということを、心許せる相手には打ち明けている人。このタイプが、一番多いのではないでしょうか。自分は幸せであると自覚し、相手に日々感謝しましょう(自戒含む)。

すべての場所でフルオープンなタイプC

 これはもう、本当に限られた人だけだと思っていました。著名な作家さんで顔が知られている方とか、作家兼コメンテーターさんで、やはりもう隠すことはできないし、必要もないとか。地元の商店街で「◯◯先生」と普通に声をかけられる。

 でも先日、ひょんなことで知り合った若い男の子が、にこにこ笑いながら教えてくれたのです。
「文章書いてます。ココとココに載せてます!」
 その子は、わたしの仕事のことは知りません。他の人にも、普通に言っているみたいです。彼は作家になりたいというよりも、どんどん自己表現していきたい人。スマホひとつで、あらゆることを試しているし、実生活でもオープンマインド。常に新しいものを探し、臆することなく試し、失敗しても切り替えられるしなやかさを持っている。
 眩しかったです。
 しなやかな人は、いつの時代も最強です。
 今後は、こういった人が増えていくかもしれませんね。

 ただ、どのタイプであろうと、まずやることは同じです。一にも二にも、自分の文章を書くことです。そして自分の顔や素性は隠しても、作品は、見ず知らずの人の目に晒し、審査され、ときに厳しい意見をもらわなくてはなりません。
 わたしも引き続きがんばります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました